第10話 みんなで決めた約束はこうだったよね……(リーン・ファンデンヒューヴェル)

 教員として教室の子どもたちを相手に仕事をしていると、毎日、数知れない決断を迫られる。ありとあらゆることが起きているのを(ときには見て見ぬ振りをしながら横目で)認めながら、さて、これにどう応じるべきだろうか、と始終判断し続けなければならない。
 ここでいう「応じる」とは、大抵は注意することだったり、アドバイスすることだったり、校則を思い出させて、それを守らなければどうなるかを説明することだったりといったものだ。

 教員ならば、多分、次のような例にはきっと馴染みがあるはずだ。どこの学校でもよく起きることで、大抵は、こうしたことについて規則が決めてある。

―― サッカー遊びは運動場の中の決まった一定の場所でだけやっていいという約束になっている。にもかかわらず、3人の子どもたちが、ブランコやジャングルジムのあたりで遊んでいる子どもたちの近くでボールを蹴り始めた。規則では、誰かが、約束の場所以外でボール蹴りをしたら、その翌日は、運動場のどこでもボール蹴りはしてはいけないということになっている。

―― 4年生のエリーゼは今週2回学校に遅刻してきた。規則では、エリーゼは放課後15分間の居残りをしなければいけないことになっている。

―― アブドゥラはバスケットボールが得意で、体育の時間に、教員が警告の笛を鳴らしたというのにボールをシュートした。約束では、笛が鳴ったのに無視して行動した場合は、罰として10分間、バスケットコートから出て座っていなければならない。

―― 算数のインストラクションを始めようとした途端にルイスがトイレに行った。インストラクションの間はトイレには行かないようにするという約束に違反している。

―― ようやく算数のインストラクションを始められたと思ったら、今度は2人の子どもが物差しを取り合って喧嘩を始めた。

―― 下校時間になると、子どもたちは、廊下のもの掛けにジャケットを取りに行くが、そこで押し合いへし合いの混雑が起きる。規則では、子どもたちがこういう混雑を引き起こしたら、一旦教室に戻って、落ち着いてからもう一度ジャケットを静かに取りに行くことになっている。

 学校での1日には、こんな風にたくさんの事件が起きる。そして、こうした出来事の大半については、すでに前に一度話し合いをしていてなんらかの規則を決めているものだ。
 子どもたちは、規則を守らなければならないし、教員は、誰かが規則違反したときには、もう一度規則を思い出させなければならない。
 
 こう言ってしまえば、一見簡単なことに聞こえるかもしれない。

規則との葛藤

  はるか昔、私が、教員養成の実習生として、色々な学校で現場研修をしていたときには、それぞれの学校にあるこうした規則のおかげでずいぶん助けられた。私があまりよく知らない子どもたちを相手にしているとき、こうした規則は、便利だった。規則のおかげで、面白い算数や国語の授業もできたし、プロジェクト学習(ワールドオリエンテーション)もできた。そして、誰かが何か間違ったことをしたときには、その学校でいつもしている通りのやり方で処理すれば良かった。

 しかし、教員免許をとって本物の教員となり、はじめて本当に自分が担任するクラスを持つようになったとき、学校にある規則に葛藤を感じたのを覚えている。自分のクラスの中にいる子どもたちのことを知り、その子たちの家庭の事情などを深く知り、それぞれの子の認知的能力や身体的能力、また、社会的能力がどれほどであるかを知れば知るほど、子どもたちの気持ちがずっとよく理解できるようになった。
 自分が担任している子どもたちのことをよく知り、それぞれの子を全人格的に理解し受け止めるようになると、子どもたちの行動に対しても、それまでとは違う形で応じられるようになった。それは、自分が、単に「教える人」、つまり授業をするだけの人ではなく、自分には他にもまだ別の役割があったのだと気づいた瞬間だったように思う。私は、自分自身が、教育者であると同時に、心理学者であり、ソーシャルワーカーであり、愛情に満ちた養育者であり、ときには、厳しい教員でなければならないことに気づいた。

 もちろん、(学校の)規則通りに対応すべきなのか、それとも、その瞬間のその状況の中で問題の子自身をよく見て対応を決めるべきなのかと迷い、ジレンマに陥ることもあった。しかし、いつの間にか、次第に自分らしい方法を選んで応じられるようになっているのにも気づいた。単純に一括りにして、誰にでも同じ規則を適用することは、公正ということについて私自身が持っている感覚に反するような気がした。

 教員は、確かに、子どもに対して正しい方法で応じることを期待されている。部外者や、また、同じ教員仲間の間でも、規則は規則、適用されて当然と考える人は少なくない。規則なのだから当然だ! そんなの当たり前じゃないか! というわけだ。しかし、そうはいっても、私は、自分の子どもたちの様々な事情をよく知っている。イエナプランスクールのように、子どもたちと3年にわたる長い付き合いをし、一緒に遊び、一緒に仕事をし、一緒に話し、一緒に催しをしながら常にお互いの関係性の中で日々を重ねている学校では、特にそうなのだ。

 そういう学校では、規則に従って決めるのではなく、他の方法で応じることがある。教員として、子どもたちに注意をすることはあるが、子どもと対話をしたり、場合によっては、見て見ぬ振りをすることもある。いろんな対応の仕方が考えられるのだ。とはいえ、それを「瞬時に」決めなければならない。その子のことを、つまり、その子の背景にある事情をよく知っていればいるほど、どう対応するかを決めるときの良い判断情報になる。また、自分自身に対して、そこで自分が下したやり方を「これで良かったのだ」と正当化することもできる。

保護者や教員同士が対話を繰り返す

 しかし、(保護者や他の教員などの)部外者というものは、その子の行為とそのときの教員である自分の応じ方だけを見ている。そのときに、教員の頭の中でどんな考えが巡らされているのかとか、その結果、どういう決断を下したのかなどは、部外者の目には見えない。教員としての子ども学的ないし心理学的な酌量は、部外者には隠されたままとなる。学校で規則が決まっているというのに、その通りの反応をしないとなると、教員が下すこういう酌量に、信頼を得ることは難しい。だからこそ、本当に子ども学的な学校を一緒に作ろうとしているのであれば、こうしたことについて、対話が繰り返されていなければならない。

 また、表向きの規則は、できるだけ少なくしておくという約束をすることもできる。いくつかのイエナプランスクールでは「ここでは誰もが他の誰にも迷惑にならないようにし行動する」ということが基本の規則になっている。だが、この規則は、一見明確であるように見えて、実は不明瞭なものでもある。ペーターセンが唯一の規則と呼んだこの規則の意図は、誰かにとって迷惑なこと、あるいは、もっと他の人にとって迷惑なこと、さらにファミリーグループリーダー(担任教員)にとって迷惑なこととは何なのかについて、皆が、常に話し合いの機会を持ち続けることにあった。
 こういう点について話し合うことは、それ自体興味深いもので、あるときには、誰もが心から同意できるが、場合によっては、複数の見方の違いが起きることもあり、そうした場合には、どうやって見方や考え方の違う仲間と一緒にやっていくかが問題になるからだ。しかし、こうした話し合いを経ることによって、お互いの間に、また、ファミリーグループの中で、皆が一緒に心地よく過ごすことができるために、なんらかの良い約束を生み出すことができるようになる。

 しかも、こうした約束は、お互いに話し合って決めているので、どの子もその意味をちゃんと理解している。だから、皆、約束をよく守れるようにもなる。

子ども自身の責任意識を引き出す規則との関わり方

 とはいえ、必ずいつもそううまくいくというわけではない! うっかり忘れてしまうことだってあるからだ。けれども、誰かが約束を守らなかったからといって、すぐに叱責したり、罰を与えるのではなく、こんな風に応じることができる。「何しているの?」と。そして、その後にはこう言えばいい。「これって、みんなで約束していたことだったかな?」

 こういう応じ方は、その子自身が振り返ってよく考えるように促すことになる。その子の何が間違っていたのかを言ってはいけない。そうではなく、こうした問いかけを通して、その子自身が、自分で自分の間違いに気づけるようにするのだ。こうすることで、教員は、その子の発達を促していることになる。責任感、共同生活への責任、市民性の発達をだ。こういう方法が取れるようになると、規則はたくさん作る必要がなくなる。罰も不必要なものになっていく。

 ただし、こういうことは、なかなか一朝一夕にできるようになるものではないことは確かだ。そうなるまでには時間が必要だし、(ちょうど算数で間違いながら覚えていくのと同じで)失敗しながら学んでいくことも必要だ。でも、教員が、いつもこの基本原則に従って応じるようにしていれば、いつか必ず良い結果を生むようになる。教職員チーム全員が、同じ方法で対応するようにしていれば、効果は一層大きい。このようにしていけば、学校の中に、学校にいる誰もがたくさんの恩恵を受けられる静かで落ち着いた文化が生み出されてくるのだ。(続く)

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