第1話 なぜイエナプランに惹かれたのか

 確かに、自分でもよく考える問いだ。オランダにあるすべての小学校のうち、たった3%がイエナプランスクールだというのに。私の職業歴の全てをとらえたイエナプランってなんだったのだろう。なぜ、私は、今のこういう自分になったのだろう。

 第2次世界大戦が終わって7年後、私は、ドイツとの国境に近い小さな村で生まれた。オランダは、当時、戦災からの復興に忙しく、人々は、袖を捲し上げたような働きぶり、文句を言わずとにかく一生懸命働く、そういう時代だった。

 私が育った村は、村人のほとんどがカトリック教徒で、当時はまだ、みんな、カトリックのしきたりをよく守って暮らしていた。私の家族も例外ではなかった。父は村役場の役人、母は専業主婦で、五人の子どもを育てるのに忙しかった。

 毎日、朝食の前には教会に行った。私たち一家の生活は、カトリック教会を中心に回っていたのだ。父は教会の男声合唱隊と少年合唱隊の指揮者をしていて、私たち子どもも、当然少年合唱隊で歌っていた。

 わたしは、ミサの時の手伝い役でもあった。大きな教会でミサがあると気には、雑用を手伝っていたし、2つあった修道院のチャペルでも働いていた。

 村の最大の行事は、毎年開かれるフェアで、行列が村中を練り歩くと、村人たちが祭りで賑わい始めるのだった。

 村の人々のつながりは強く、村人の生活ぶりは誰の目にもよく見え、人は、周りの人の期待通りに生活している、そんな感じだった。

 学校での成績はまあまあ良い方、10点満点は無いが、7点8点はたくさんあった。小学校を卒業した後、どういう道に進もうかと考えていたが、それもそれほど難しい選択ではなかった。

 教会にしっかり繋がった生活をしていたので、聖職者になるのが良い選択だろうと当然のように思っていた。多分、当時の牧師の社会的地位も、そう考えた理由の一つだったような気がする。牧師は、村で人々を導く羊飼いのような人、村の人々にとって重要な存在だったのだ。

 もちろん、わたしの両親は、わたしが聖職者になりたいというと、とても喜んだ。家族の中から聖職者が出るというのは、当時は、神様からの贈り物のように思われていたからだ。

 さて、どんな聖職者になったらいいのだろう、とわたしも考えていた。宣教師、従軍牧師、神父、チャペル牧師、それとも、教会の牧師? そんなことを考えながら、大司教管理下の小さな神学校に入ることとなった。それは、6年間のギムナジウム教育(*ラテン語やギリシャ語を学ぶ学校教育)をしてくれる学校だった。

 それを終えたら、その後に、神学と哲学をさらに6年間学ぶことになっていたのだが、結局、それは実現しなかった。

 聖職者になりたいと願うことは、家族や親族から離れるということでもあった。だから、最初の3ヶ月間は、家に帰ることもできなければ、誰かの訪問を受けることもできない。年に3回だけ、休暇で家に戻ることが許された。

 神学校では、初め、厳しい規律のある寄宿舎で過ごさなければならない。それは、12歳から20歳までの360人の青少年が起居を共にする暮らしで、聖職者が教師で、修道女たちが食事や病人の世話をするというものだ。毎日毎晩クラスメートと共に暮らしているうちに、次第に自分の生活もその集団の中に見出していけるようになった。

 教室に座り、ホッケーをし、12人の子が、日に三度の食事のたびに同じテーブルに着くのだ。どの学年からも二人ずつテーブルにつき、最上級生の6年生の一番年上の子がテーブル・ファーザー、5年性の年上の子がテーブル・マザーの役割をした。

 最も年長の子どもたちがテーブルの中心近くに座り、年少の子は端の方に座った。最年長の子たちが食べ物の入った器の最も近くにいて、最年少の子達は、最後に残った食べ物を取ることができた。

1960年台の中頃、当然だと考えられていたローマ・カトリックの生活が崩壊する。神学校に行きたいと考える子どもの数も次第に減っていった。私の神学校にいた少年たちも少しずつ姿を消していった。

 段々と神学校にいることが嫌になっていったのだ。もう少し上品な言い方をするなら「彼らにはもう、神様からの召命という気持ちがなくなっていった」のだった。

 厳しかった規則は次第に緩み、部屋の内装も新しくなり、自由時間が増えていった。そうして、私たちは、それまでのように学校の中だけでホッケーをするのではなく、街のホッケー・クラブに入ることができるようになった。つまり、週に何回か、ホッケーの練習のために街に出ていき、試合にも出られるようになったのだ。

 このようにして、寄宿舎の外の生活に触れるようになった。私たちのホッケー・チームは東部青少年部門で優勝し、全国大会に進むこととなった。あれは本当に素晴らしい思い出だ!

 16歳になった時、わたしにも「神様から召命」されているという気持ちが消えてしまい、両親に、もう一度家に戻って暮らしたいと伝えた。混乱の1960年台に16歳だった私にとって、「何もかもがそのままではいけない、変わらなければ!」という気分だった。

 わたしにとって、その時唯一の当然の選択だと思われたのは、教育者になることだった。師範学校は、わたしのような中流階級の出身者にもいくことのできる最も高い教育機会に見えたのだ。

 それは、学校の教師を育てる、古い方式の養成学校だったのだが、まったく偶然のチャンスで、実習のために選んで行った学校が、わたしにとっては、すぐさま、自分の家庭にいるような心地よさを覚える学校だった。

 そこには、何か今までに見たことのない別の雰囲気があった。誰もがお互いに「当たり前」に行動し合っているというような学校ではなく、その学校には、平等(エガリテ)の雰囲気が強く漂っていた。

 その瞬間、心の中で私自身はっきりと意識することができた。そういう学校、つまり、人々が今までとは違う方法で行為している場所、理想主義を掲げて人々が働いているところ、人と人とが平等に関わりあうことが重視されている場所、そこで働きたい、そう思ったのだ。

 それは、当時オランダに数校だけあった、初期のイエナプランスクールのうちの一つだったと、後になって知った。

 それまでのわたしの人生に通じていた赤い糸、それは「同志」とか「友愛」と呼べるようなものだった。わたしは、いつも、何かの集団に属すこと、家庭に家族としていること、少年合唱隊に属すこと、ミサの手伝い役として振る舞うこと、少年団の中にいること、級友と共にいること、他の子と共にテーブルにつくこと、ホッケーチームに入っていること、そこで、最善を尽くすことを学んできた。

 何かの集団に属し、そこに属していると何かずっと大きな全体に対してなんらかの形で貢献できているという気持ちになれたし、そうするだけの価値のあることだとも思っていた。

 けれども、1960年台に社会で何が変わったかというと、「友愛」だけではなく、次第に「自由」(リベルテ)への希求が大きくなっていったことだった。自分の人生をどのように満たしていくかは自分が決めること、自分の意見を持つこと、それを、他の人にも求めていくことだ。

 そんな雰囲気の中で、わたしは進んで学校での仕事をしていた。その学校で、人々は、その学校独自のコンセプトに従って働いていた。イエナプランがその学校の人々にある方向性を示してくれていたのだ。イエナプランは、そこで働いている人の基盤だった。

 けれども、それをどのように埋め、満たしていくかは、いつも、お互いに話し合いながら、また、「群れを率いる羊飼いのような」校長と相談しながら、自分たちで選択していくのだ。

 わたしは、教室の担任教師の仕事を10年して、最後に校長になった。31歳の時だ。その学校は、ユニークで、独自の顔を持ち、多くの人の目をはっと引くようなイエナプランスクールだった。子どもたち、保護者、そして、同僚たちは、本当にたくさんのことをわたしに教えてくれた。そこで私はかけがえのない経験をたくさんすることができた。

 スクールリーダーとして18年間仕事をしたあと、わたしは、フレーク・フェルトハウズと出会った。その出会いは、知識や経験をもっと広く拡げていくための同志を得た、という気持ちにさせるものだった。学校を、子どもたちが最大限に発達するために働ける場にするために、それを助けて仕事をしている他の人たちを助けたい、そう考えたのだ。

 やはり、私は宣教師になったのかもしれなかった。

続く

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