第1話 ホンモノは生きている

 待望の初孫が生まれて1年半。生まれた時から、日に日に成長していく姿を微笑ましく楽しんでいたのも束の間、この可愛い盛りの孫を連れて、娘夫婦がニュージーランドに移住すると言い出しました。なんてこと! 心の中でそう叫びつつも、子どもの選択に親が反対したところで、何かいい結果が出る試しはないのだからとも思うのです。

 「そんなに遠くにいってくれるな」と叫びたくなる気持ちと、「まあ好きにしてごらん」という物分かりの良い親の声とが、心の中で交錯しました。まあ、振り返ってみると、自分もこうして両親を置いてきぼりにして外国に出て行った身です。蛙の子は蛙、諦めるしかないな、それに、やっぱり未知の国に行くことぐらい人を成長させることはないのだし、と腹を括って笑顔で送り出すことにしました。

 こうして、親の私の葛藤などよそに、あるいは、見て見ぬふりをしていたのか、とうとう、去年の暮れ、クリスマスの直前に、感染拡大が止まらず収束の道が見えない新型コロナウィルスの蔓延をすり抜けるように、娘たち一家は、オランダから地球の真裏のニュージーランドへと移住していきました。

 そうはいうものの、私が日本を出ていった40年前に比べると、通信技術は飛躍的に発達しています。あの頃は、電話ひとつかけるのにも町の電話局に行って高い電話代を気にしながらほんの数分、お互いの消息を確認するだけの話をするのが関の山でした。手紙を書いても、その返事をもらうのに二週間も三週間も、場合によってはもっと時間がかかったものです。

 それに比べると、今や、携帯電話やタブレットで、空港の出国手続きをしている様子も、途中で降りたシンガポールのホテルに入る様子も、到着して二週間検疫のために監禁されたオークランドのホテルで、のんびりベッドの上に寝そべって退屈な時間を過ごしている様子も、何でもオンタイムで映像と共に見ることができます。

 昔は、親に頼らず一人で頑張らなくっちゃ、心配をかけないようにしなくっちゃと思ったものですが、今の時代、若い人たちは、家族や友人から断絶されるという経験もしないでよいし、考えてみると、その分、冒険のスリルは無くなっているのかもしれません。完全にたった一人で未知の土地で格闘するチャンスがないというのも、少し残念な気がします。

 1歳半と言えば、よちよち歩きから次第に足取りがしっかりしてきて、語彙も毎日のように増えていく時期。ほぼ隔日のテンポで娘が送ってくる動画からは、孫の目覚ましい成長が、まるで目前にいるように伝わってきます。真冬のヨーロッパで暮らす私たちの元に、真夏の日差しとキラキラ光る緑の木々に囲まれたニュージーランドの娘一家の暮らしが、タブレットの画面を通してしょっちゅう飛び込んでくるのです。

 水際で感染を抑えるという厳しい検疫のおかげで、ニュージーランドに暮らし始めた子どもたちは、マスクもつけず、街への外出もこれまで通り、レストランやカフェでの外食もできるという、なんとも羨ましいばかりの当たり前の生活を再開しています。それがどんなに価値あるものか、感染が広がったヨーロッパでの暮らしを経験した後に、何よりも娘たち自身が、一際強く感じているようです。

 たくさんの樹木や花々が咲き誇る大きな庭と、垣根越しに見える牧場。高台にある新居は、周りをぐるりと広いバルコニーに囲まれており、人口密度の高いオランダのアパート暮らしだった一家にとっては、まるでパラダイスのように自然の環境に恵まれた暮らしぶりです。庭には、珍しい鳥が舞い降りてくるし、牧場にはオランダの牛とはちょっと違う形容の牛が草を食んでいます。

 同じ敷地に住んでいる大家さんは、自分で丹精をかけて作った果物を、毎日のように届けてくれるそうです。1歳半の子どもがやってくると聞いて、大家さんは、バルコニーの出入り口に柵をつけ、子ども部屋に、自分の子どもがかつて遊んだという玩具を山のように用意しておいてくれました。娘も、孫の馴染みのおもちゃをスーツケースに詰められるだけ詰めて持って行きましたから、まあ、玩具にこと欠くことはなさそうです。

 そんな暮らしにずいぶん馴染んできたある日、真夏のバルコニーでおむつ一つで遊んでいた孫娘の上に、雨の水滴が落ち始めた様子を映したビデオが送られてきました。孫娘は、生まれて初めて外で雨に打たれたのか、おもちゃで遊んでいた手をいきなり止めて、すくっと立ち上がると、天から降り注ぐ雨に肩やお腹が濡れるのが面白くて仕方がないという様子で、濡れていく自分の頭や肩を手で触りながら、キャッキャっとはしゃぎ声をあげて、あっちの隅へ、こっちの隅へと広いバルコニーを隅から隅へと走り回っています。

 どっちに向かって走っても、どんなに遠くにまで行っても、そこでも雨が降っているのが面白くて楽しくて仕方がなさそうなのです。

 別のある日には、庭の樫の木から落ちてくる真新しい緑のどんぐりを集め、何度も何度も覚えたばかりの日本語で「どんぐり、どんぐり」と繰り返していました。大好きな「となりのトトロ」を思い出して、「トトロ、どんぐり」と呟いています。

 家から海岸までは車で数分。暇を見つけては、一家で海岸に出かけているようです。コロナのおかげで観光客も少なく、休日でも、海岸は広々としていて人気があまり見えません。砂浜に座っている孫は、山の形に固められた砂を手で掴むと、それが手の中ですぐに崩れ、砂つぶが指の間から落ちていくのが不思議でならないようです。何度も何度も砂をつかんでは、落ちていく砂の様子をじっと、真剣そのものの表情で見つめています。

 先週の日曜日には、パパと二人でパンケーキを作っている動画が送られてきました。床に置いたボールに小麦粉を入れ、冷蔵庫から出した大きな容器からミルクを注ぎ込み、それを泡立器でかき混ぜています。パパがしている通りに、自分も大きな容器を手に抱えてミルクを注いでみたくてたまりません。乾いた小麦粉とサラサラのミルクを混ぜてドロドロになったパンケーキの生地を、自分でもパパのように泡立て器で混ぜてみたい様子です。きっとこの後、そのドロドロの液体から美味しいパンケーキができる様子も興味津々でみていたのに違いありません。

 あんなにたくさんのおもちゃに囲まれているというのに、周りで起きるホンモノの様子、ホンモノに触れる面白さに勝るものはないようです。おもちゃの方が色とりどりで美しいのに、頭の上に降り注ぐ雨粒、緑色のどんぐり、白いパンケーキの生地、粒が集まっただけの砂の方がずっと子どもの興味をひくのは、いったいなぜなのでしょう。皮肉にも、タブレットのビデオ越しに、つまり、目の前にホンモノの孫がいるのではなく、地球の真裏から送られているバーチャルな画面に映った孫の姿を見ながら、そんなことを何度も思っている自分がおかしくなります。

 自分が子どもを育てているときには、そんなふうに子どもを見る心のゆとりはなかったな、とも思います。這えば立て、立てば歩けではないけれど、子どもが自分の中に持っている成長への力などお構いなしに、あれやこれやと要らぬものばかり与えて、早く学べ、早く大きくなれと余計なお世話を焼いていたのかもしれないな、と、孫ができて初めて、親であった時の余裕のなさを思い出します。

 ホンモノとニセモノの違いってなんなのでしょう? こんなに小さな子どもでも、おもちゃよりもホンモノに惹きつけられるのはどうしてなのでしょう?

 ホンモノは、生きています。生きているから、変化もします。生きたものの変化は、予測ができません。それに、ホンモノは、一見同じように見えていても、一つ一つ形容が違います。雨粒も、砂浜の砂も、どんぐりも、パンケーキも…。いつも、同じ種類のものの中に、果てしもなく多様性が備わっているのです。同じ色や形の積み木やレゴブロックとはちょっとわけが違うのです。ホンモノには、形や色だけではなく、匂いがあったり、人工のものでは生み出し難い肌触りがあったりします。

 生きたホンモノには、お互い同士につながりや関係があります。どんぐりは、樫の木や日光や風や雨と繋がっています。海岸の砂は海や波や貝殻と繋がっています。そして、波は、地球と月の動きに、つまり、果てしもない宇宙へと繋がっているのです。そして、生きたものは、時間の経過とともに変化していきます。育ち、旺盛となり、やがて休み、いつか枯れ、そして自然の中に消滅していきます。

 私たち人間も変化しています。なぜなら、私たちは生きているからです。生きていくには、自分の周りの世界から、常に何かを感得し、それを内化して、環境に応じる力を身につけていかなければなりません。それが本当の学びです。そう考えると、私たちの学びは死ぬまで終わらないものであるということが理解できます。生きている限り、学びは続いていくのです。

 生命のないおもちゃより、生命のあるホンモノに惹かれるのは、これから長い人生を生きていく、その出発点に立っている子どもの本能の力なのではないでしょうか。こどもは、誰に教わることもなく、自分がこれから自然の摂理の中で生きていかねばならないということを全身で知っている。その力が、体の中の仕組みとして、感覚や脳の働きとしてインプットされている…そして、そういう学びは、他の誰も止めることができないものだと思います。

 学校は、教師は、子どもを席に縛りつけ、窓の外によそ見をするなと言い、教科書という紙に刷り込まれた「活字」という乾いたインクの跡に子どもの目を釘付けにしたがりますが、それは、本当に子どもの成長を支え励ましていることなのでしょうか。実は、とんでもない大きな過ちを犯し、大切な、二人といないユニークなその子が持っているその子だけの可能性を、意味なく、しかも、なんの深い考慮も無く、閉じ込め、枯れ果てさせているのではないでしょうか?

続く

>イエナプラン 共に生きることを学ぶ学校

イエナプラン 共に生きることを学ぶ学校

フレーク・フェルトハウズ、 ヒュバート・ウィンタース 著 リヒテルズ 直子 訳

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