第12話 対話:クリティカル・シンキング(批判的思考)を養う場(リヒテルズ直子)

クリティカル・シンキング(批判的思考)ってなんでしょう?

 この言葉は、日本語で「批判的思考」とすると、どうやらすぐにネガティブな印象を受ける人が多いらしく、話題にするのが難しい言葉なのです。

 確かに、日本で誰かと話している時、または、誰かが話をしているのを見る時に、お互いに相手の顔を見ながらうんうんと頷き合っている場合がほとんどですし、場合によっては「そうそう」と相槌を打っていることさえあります。こうした対話に慣れてしまっていると、「でもね」「そうかな」と相手に反対の意見を言うのは、とても勇気がいるし、ときには「何を生意気な」と非難されそうで口をつぐんでしまうこともあります。

 だから、この批判的思考という言葉を避けて、カタカナで、英語のままクリティカル・シンキングという表現をしてきたのですが、それでも、「相手とは異なる意見を言うこと」は日本では本当に難しいと感じます。

そもそも、クリティカル・シンキングをすることの意味ってなんなのでしょうか?

  それは、物事を見ると時、また、何かの問題にぶつかった時に、一面的な見方をしないことで他者と協働できるようになる、問題解決の仕方が持続可能な深いもの、あらゆる面を考慮した独創的なものになるからなのではないでしょうか。

 その意味で、私は、「複眼的な思考」と呼んでもいいのかな、と最近思っています。

 イエナプランが重視している「対話」は、この複眼的な思考を養う上で大変役に立つものです。

 何か、同じものを見ながら、みんなが違う意見を言い合う。一人ひとりの見方は、その人が日頃何に興味を持っているのか、どんな性格か、何が得意か、何が好きか、家庭でどんな立場にあるか、家庭でどのような親にどう育てられているか、ある人やある出来事から強い影響を受けたかなど、実にさまざまな要因によって変わります。そして、私たちは、そういう十人十色の社会の中に生きています。社会問題を解決する上で、学歴の高い人、専門知識のある人だけの意見によるのではなく、皆がその問題とどう関わり合い、どんな見方をしているかを知ることで、誰にとっても納得のいく解を見出すことができるのです。

 子どもたちに「対話」を学ばせるのは、そのためなのです。「そうそう」と相手に同意することも確かにあると思います。何しろ、私たちは、皆同じ世界で同じ問題にぶつかりながら生きているわけですから…。でも、大切なのは、角度の違うものの見方に触れること、それを通して、自分の見方をもっと深いもの、もっと幅広いものに鍛え上げていくことなのではないでしょうか。

批判的思考、複眼的なものの見方や考え方は、「独善」的になることを防止してくれます。

 自分とは異なる意見を聞くことで、「ああ、そうか、そういう見方もあるのか」「なるほどね、その観点から見ると他の要素も大事だな」「この人はどうしてこんな見方をするのだろう、その背景には何があるのだろう」そういった、他者の見方に対するオープン性は、自分の社会に対する姿勢を開かれたものにしていきます。どんなに理論立っていても、どんなに権威ある専門家の意見をもとにしていても、自分の考えは自分の考えに過ぎず、常に、誰か他の見方をする人から修正されたり向上させられたりするものだ、という態度は、社会を受け入れ、社会に受け入れられ、社会の中で信頼に値する人として行為していく上でとても重要な態度です。

 どうでしょう? お互いに反対意見を言い合える対話をしたくなってきたのではないでしょうか? 「私たちは、違う見方をする他の人の『頭脳』を必要としている」。そう言ったのはヒュバートさんでした。本当にその通りだと思います。子どもたちにも、お互いの頭脳を利用し合う経験を、ぜひさせてやりたいものです。(続く)

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