第11話 結果よりもプロセス(リヒテルズ直子)

どれだけ時間をかければいいんだい?

 オランダでのイエナプラン研修では、オランダの講師らから色々な課題が出されます。

 ある時「何か一つの教科の授業を、”6つのクオリティ”(経験の重視、発達の重視、協働の重視、世界に向けた、批判的思考、意味・意義のある学び)を意識しながら企画しなさい」という課題が出されました。多分、日本の学校の先生には、こうしたクオリティを意識しながら授業を組み立てるという経験はあまりないのではないかと思います。案の定、研修生たちは、頭を捻りながら、初めての課題に取り組んでいます。

 1時間ほどして、講師は「さあ、できたものをみんなで発表してみよう」と声をかけました。その場にいた私は、「いやあ、まだできてないでしょう、だれも。もう少し時間を与えてはどうですか。明日発表ということにしては?」と答えました。すると講師は、「いつまで時間をかければ気がすむんだい?今できていることをお互いに発表しあえばいいんだよ。こんなことにいちいち出来上がるまで待っていたのでは、いつまで経っても先に進めないよ」と言いました。

 それを聞いて、私自身が気づかされたのです。日本の学校では、子どもたちにあまりにも完成品を求めすぎてはいないか、と。どこまでも良い結果、見栄えのする完成品を出すことに限りなく重きを置きすぎているのではないか、と。

 確かに、日本では、ありとあらゆるものが高いクオリティを持っています。伝統工芸品などは、その典型かもしれません。メイド・イン・ジャパンが世界的に信頼されているのも、確かに、最終的な生産物のクオリティの高さがひときわ目立つからに違いありません。ですから、私自身、このクオリティの高さには誇りを感じていますし、それを維持していきたいという強い気持ちはあります。でも、こうした精神性の裏にも、影の部分があることは意識しておいた方が良いのかな、そう思えるようになったのは、この研修でのそんな経験があったからなのです。

 確かに、ものづくりには最終成果のクオリティが問われます。でも、学校で子どもたちが学ぶのは、最終的に獲得する知識やスキルだけではなく、学び方、つまり、プロセスでもあるのです。そして、この研修で、研修生たちが学んでいたのは、何か一つの授業を立派に作り上げるということではなく、授業の作り方、つまりプロセスを学んでいたのです。

学びの質は成果だけで測れるものではない

 学びには、このように、良い成果を生み出すという学びと、学び方を学ぶという、プロセスそのものの学びとがあると思います。その両方をバランスよく行うことが大事なのではないでしょうか。つまり、知識やスキルを試すテストで満点に限りなく近い点を取れるために励むことは確かに意味があります。でも、人間としての力は、知識やスキルを身につけることの他に、まだまだたくさん、何かを創造する力、人とうまくコミュニケーションする力、協働する力、批判的に思考する力、などなど、社会性や情緒の発達にも関連したたくさんの力があります。こうした力は、何か完成させようとするよりも、前よりも少し前進したと確認しながら学んでいく力です。

 また、こうした力は、先生に見せて「はいよくできましたね」と言われて安心するよりも、学んでいるもの同士がお互いに評価しあって互いを高めあう力でもあると思います。

完成品を求めすぎるあまり、過剰な課題に溺れてしまっていないか

 こう考えるようになって以来、さらに気づいたことがあります。大人たちの仕事の仕方が、やはり、一つ一つにあまりにも完成品を求めすぎるあまり、どれもこれもが未完成の仕事ばかりという意識が強くなっているということ。「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」と完成していない仕事に溺れてしまっているのではないか、と思えるようになってきたのです。

 何かの方針を決めなければいけない、みんなで計画を立てなければいけない、プレゼンテーションをやらなければいけない、などなど「ねばならない」こと、しかもどれに対しても「完成品」を求めるあまり、みんなが忙しくなって、どれもこれも完成しないものばかりで先に進めない状態になってしまってはいないでしょうか。

 そこには、まず、ここまでをターゲットにしてやってみよう、その結果を見てうまくいけば次のターゲットを決めればいいし、みんなでやらなくても誰かに任せられるようになるかもしれません。そこまでの段階でうまくいかなければ、どこを修正したらいいかその段階で考えればいいのです。そのようにプロセスを細かに分けて、未完成の中間段階で振り返るという仕事の仕方ができなくなっているように思うのです。

 何かの方針を立てる際も、現状から見えていることはわずかです。とりあえずの策を立ててみてそれを実践してみた時にさらに見えてくる新たな要因があるはずです。何かの計画を立てるにしても、ずっと先まで完璧に計画を立ててその通りに進められることは滅多にありません。まずは、第1段階を達成するために、予測できるデータをもとにとにかくやってみる、その結果を見て次の計画に進むと言った方が確実に前に進みます。プレゼンテーションだって、完璧にやろうとしても相手がいることですから、相手との相互作用でこちらの思惑通りにいかないことはいくらでもあります。

人は完璧である必要はない、プロセスは他者との協働を受け入れることから

 プロセスを学ぶとは、全てを自分のコントロールに置くことではなく、未知の事柄に対応できるゆとりを持つことでもあるのです。

 「一人で学ぶ」のではなく「共に学ぶ」こと、「一人で生きる」のではなく「共に生きる」ことを重視しているイエナプランは、まさしく、一人でなんでもできなくてもいいんだ、皆未完成なんだから、他の人が補える場所があっていい、それでこそ他者を尊重できるようになるし、それでこそ本当にお互いの強みを出し合いながら「共に生きる」という意味なのだ、と考えています。

 だから、自分一人が抜きん出よう、自分一人でなんでもコントロールしようというメンタリティの人、なんでも自分だけで完成させようという人には、イエナプランは合わないかもしれません。

 完成品を目指す人、完全主義の人は、人間関係においても八方美人になりがちで、自分が誰からもよく見られたいという行動をとりがちです。その結果、ビジョンを見失ってしまうのです。

 そうではなく、ビジョンを共にする人と協働すること。どの人も何かが強く何かが足りない、でも、ビジョンが共有できていれば、みんなで一緒にプロセスを共有しながら、より良いものに近づいていける、それが、イエナプランであり、イエナプランがめざしている民主社会のあり方です。(続く)

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