第10話 自由と責任、主体性って何?(リヒテルズ直子)

君はどうなんだい? 君は満足しているの?

 最近、ヒュバートさんに聞いてハッとした話です。

 ヒュバートさんは、日本を何度か訪れていますし、もう10年以上もの間、毎年日本からオランダを訪れる大学生、学校の先生、大学の研究者などを対象にイエナプランの研修を講師として受け入れてきた方です。そのヒュバートさんにこう言われて、私自身全く気づいていなかった観点を教えられた気がしました。

「日本の研修生たちは、何か課題を出すと、それをしながら私に『これでいいですか』と聞いてくることがとてもよくある。私は、彼らからこういう問いを受けるたびに、そのボールをすぐさまこう言って投げ返すんだ。『君はどうなんだい? 君は満足しているの?』とね」

 この話を、ヒュバートさんは、自由や責任とはどういうことか、というテーマで話している時にしてくれました。そう、自由とは責任を伴うもの、それは、日本でもよく言われます。でも、自由と責任とは、一枚の紙の表と裏、または、一つのボールの二つの違う側面のように、本当に一体化したものだということに気づいている人は少ないと思います。

 ヒュバートさんたち、イエナプランの教員研修の講師たちが研修生に出す課題は、正解があるものを繰り返し反復練習したり暗記するような課題ではなく、何かについて、自分(たち)で考え、探求し、生み出す課題です。板書の仕方や教室での声の出し方を練習するのではなく、学校で授業をする教員として、その場その場で自分自身の頭を使いながら判断できるようになるための課題です。ですから、そこには人間の教師が、人間として自分らしく判断していくための大きな自由が前提として設けられています。例えば、「あなたが学校を作るとしたら、どんな名前の学校にしますか」「その学校の時間割をどう組み立てますか」「算数の授業をイエナプランが目指すクオリティをもとに組み立ててみましょう」「学校の校舎や校庭をどのようにデザインしますか」といった課題です。

 こういう課題に取り組む際、研修生は、自分自身で、これまでに学んだ知識や経験をもとに「どういう形にすれば良いだろう」「どういう企画が可能だろうか」「自分自身が最も心地よく満足なものはなんだろう」という自分なりの判断を無意識のうちに迫られているのです。

 このように考えると、そうやって達成した課題の成果を、講師のところに行って「これでいいですか」と聞くのがちょっと変だということがわかると思います。

 実際、研修生にこういう課題を出した後、ヒュバートさんたち講師は、グループで相談したり、自分で探究的に取り組んでいる研修生の近くによって行って、何かアドバイスをしたり話しかけたりといったことをほとんどしません。また、オランダの教員たちに対しても、子どもたちに課題を出したら、近づいて行ってやっている様子を上から見下ろすようなことはできるだけしないように、と助言しています。遠くから、見て見ぬ振りをするのがいい、子どもたちから目を逸らすのではない、でも、むやみに近づくな、と言っているのです。

子どもたちは、「自由」の取り扱い方も学んで覚えなければならない

 このように考えると、教員が中心になって、ありとあらゆる課題の「回答」は教師が握っているというような授業は、単に、子どもたちが自分の意志で学び自分の目標のために成長する自由を奪うばかりではなく、自分がしていることへの責任を放棄して、責任意識をことごとく奪い去っていく教育であることが明らかです。

 ところで、かつて、あるテレビ番組で「オランダのイエナプラン」が紹介された時、その番組が放映されている間、ずっと画面の右肩に「自由すぎる、イエナプラン?」という文字が出されていたのを思い出します。

 自由とは、何か、程度があるものなのでしょうか。10個の事柄のうち、2個と3個については自由にやっていいよ、というのは、本当に「自由」と言えるものなのでしょうか? あるいは、「9までは自由を認めるが10個目は認められないよ」という自由があるのでしょうか?

 また、自由とは、場合によって「行きすぎ」と言われる状況が起きるものなのでしょうか?

 子どもたちには、どこまで自由を認め、どこからは大人が制限しなければならないのでしょう?

 ヒュバートさんの同僚のフレークさんは、こう言います。「子どもたちには、自分で決められる自由の範囲を少しずつ広げてやらなければならない。そして、与えられる自由の度合いは、一人ひとりの子どもによって違う」と。そして、ある時こうも言いました。「子どもたちが、ローラースケートの靴を履いて高速道路を走りたいと言ったら、誰だってそんなことはだめだと止めるだろう。大人たちは、子どもたちが危険に晒されないようにしなければいけないし、社会のルールを守れるようにもしなければならない。大切なのは、大人が自分の都合で子どもたちの行動を制限するのではなく、子どもたちの安全を考えて自由の範囲を決めてやることなんだ」と。

 この言葉は、大人はなんのために子どもを導いているのか、ということを教えてくれます。子どもたちが、従順に、盲目に、大人社会のルールに合わせるためではないのです。大人の考えを子どもたちに押し付けるためではありません。それでは世の中は発展していきません。いずれ、新しい社会を自力で生み出していく市民を作るためには、子どもたち自身の自由な精神が大切で不可欠です。しかし、そういう自由の精神を損なうことなく大切に育てる上で、その子が危険な状況に晒される可能性がある場合には、そのために自由を制限しなければならないことがあるのです。

 子どもたちは、自由の取り扱い方を知りません。自分が危険な状態に陥らないこと、他の人の自由を奪わないでいる責任を、まだ知らないのです。また、自分が何を求めているのか、何が好きなのか、何をしたいのか、ということも、深く意識しているわけではありません。自分がしたいことを衝動的にやれば、自分が傷ついたり、他の子を傷つけたり、周りにあるものを壊してしまうということも起きないとは限りません。・・・でも、だからと言って何もかも「だめだ、だめだ」と制限していては、「自由」とどう付き合っていけば良いのか学ばないまま大人になってしまいます。「自由」は、少しずつ範囲を広げながら学んでいかなければならないものなのです。ちょうど、国語や算数の力をつけていくように…。

 そのために必要なのは、「これについては任せても大丈夫そうだ、この子を信頼してみよう」という大人の態度です。「やってみてごらん」「きっとできるから」という励ましは、子ども自身が、臆病な気持ちから、やってみようかなという能動的な気持ちに変わるきっかけになります。「自由」は大人にとっても取り扱うことが怖いものです。なぜなら、「君の好きなようにやっていいよ」と言われた時くらい、その結果に対して「責任」を感じることはないからです。

自由を与えず責任だけを問うのは、単なる強制

 最近は、子どもだけでなく、大人に対しても、「責任」「責任」と口をすっぱくしてよく言います。工夫したり、試みてみて失敗するというゆとりも与えられないまま、ただ結果に対する責任だけが問われることがよくありますが、それは、本当にその人の責任意識を育て、強めるという効果を発揮しているのでしょうか? 責任は、自由がある時に本当に問えることです。

 ある教室では、先生が床に足形を描き、授業時間中ずっと子どもたちは、自分の足をその足形の中に入れて授業を聞かなければいけないのだそうです。身動きもできずに、じっと足を一定の場所から動かせない子どもたちは、きっとその苦しさばかりが気になり、授業の内容など少しも頭に入らないのではないでしょうか?

 それは、「責任」という一見聞こえの良い言葉を使っているかもしれませんが、単なる「強制」にすぎず、子どもたちから自由を奪っていることに他なりません。

 よそ見をしたり手遊びをしたり、近くの子とおしゃべりをしたりしている子がいる時には、その子に、「今、君がしなければいけないことはなんなのかな?」「他の子も学んでいるのだから、その邪魔をするのはいけないことだね」と思い起こさせることが大切です。「責任」は強制されてではなく、自分が気づいて果たすことができるようにならなければ、意味がありません。でも、そういう力も、子どもたちは、まだ学んでいる途中です。初めから責任を問うても、子どもには意味がわかりません。子どもたちは、まだ、社会性そのものを発達させている途上にあるからです。

自由や責任を学ぶのには失敗がつきもの

 どんな学びにも、失敗はつきもの。発表の時に声が小さくて皆に言葉が届かなかった、算数でやり方を間違えた、こういう失敗は、自分の力がどこまでで、どこがまだ不十分なのかを知る良い機会になります。楽器の演奏でもスポーツでも同じです。うまくできないから何度も何度も練習してうまくなろうとします。

 同じように、このくらいのことは、この子の判断に任せてやらせてみようという態度をとって、子どもたちの判断に任せることで、子どもたちは、自由や責任について学ぶようになります。大人は、期待通りにうまく行った時には、大いに「褒め言葉」を与え、うまくいかなかったら、何がうまくできなかったのかに気づかせてやれば良いのです。そして、その子にできそうなところをもう一度見極めて、「今度はきっとうまくいくよ、やってごらん」と背中を押してあげればいいのです。

 こうやって、子どもたちは、少しずつ、責任を持って自由を取り扱える人間として育っていきます。責任とは、他の人の自由を侵さないこと、人から任され、自分でもやろうと決めた仕事を自分の判断で精一杯果たすことです。そして、自分がしたことがうまく行ったのかどうかを判断するのは、自分自身なのです。それは自分の「自由」を守るためです。「私は、この成果に満足しているか、このやり方で良かったと思っているか」と。(続く)

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フレーク・フェルトハウズ、 ヒュバート・ウィンタース 著 リヒテルズ 直子 訳

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