親から子へ、大人から子どもへ

 母親になったことのある人は、子どもが産まれたその瞬間、全てが、自分中心の生活から、子ども中心の生活に変わらざるを得ないことに気づいたことがきっとあると思います。何しろ、その瞬間から、誰かが手をかけて、ミルクを飲ませ、抱き上げ、オムツを変えてお尻を拭い、静かな場所に寝床を用意して、室温に合わせて暑すぎないように寒すぎないようにかけ物をしてあげ、とその子の面倒を何から何まで見てあげなければならなくなるからです。

 長男が生まれる直前、私は、オランダの家の一室で、日本の大学で取り残した最後の単位を取るために、博士課程の卒業論文を書いていました。大きなお腹が邪魔になるような、そんな姿勢で、原稿用紙に向かっていました。それこそ、自分が時間をかけてやった研究を、はて、どうまとめようか、と自分の仕事のことで頭がいっぱいでした。1日の時間の大半をその仕事に費やし、疲れれば、自分の疲れを癒すために、戸外に出て散歩する。締切りに追われつつ、終盤は、本当に他のことは一切何も考えずに、ひたすら、自分の論文を書くことだけに費やしていたのを思い出します。
 やっと書き終え、分厚い原稿用紙の束を郵便で日本に送り出した翌日に、前駆陣痛が始まりました。そして、ハラハラと過ごした二週間を経て、長男が産まれてきました。その瞬間に、私の生活は、物理的にも精神的にも180度変わりました。24時間体制で、産まれてきたばかりの子どもの面倒を見る生活が始まったのです。もちろん、それは悦びに満ち満ちた充実した日々でした。でも、今振り返ってみると、あの日こそが、世代交代の幕開けだったのだな、と思うのです。

 学校に子どもを送り出している親は、皆、そういう経験をしています。自分の力を、自分のためにではなく、子どものために全て注ぎ込まなければならないという経験を経てきているのです。そして、その子どもを学校に送り出す時、あるいは、保育園や幼稚園、そして、親や近所の人など、自分が関われない時間に、誰か他の人に我が子を託す時、産まれた時にドスンと自分の手に落ちてきた責任を、いったい誰と分かち合おうか、と考えるのです。いったい、その人たちは、「本当に、私がしていることの代わりをちゃんとやってくれるのだろうか」と。
 もちろん、子どもは自分で生きる力を持っています。そして、人間の子供は、両親だけに守られた生活から、少しずつ他の大人や子どもと触れることで、社会性を身につけていくものです。少しずつ、親の加護の元から離れて行くのは、どんな動物にも言える、当たり前のことではあります。

 でも、親が、自分のためにしていたことを全て二の次に回し、あらゆる知恵と力を子供のために注ぐというこの感情を、学校の職員たちは、やはり、もう一度よく考え直して見ても良いのではないのかな、と思います。
 学校は、お国のために子どもを育てているのではありません。子ども自身の幸福のために、子ども自身が、その社会の中に場所を見出し、自分の力が注ぎこめるものを見出し、自立して、自分らしく生きて行くために、そうなるまでのプロセスを支援する場です。そして、人々が皆自分に満足し、自立して生きている人々からなる社会こそは、最も生き生きとした温かい平和な社会であると思います。

 ペーターセンは、また、多くの新教育の創始者たちは、親こそが、子どもの権利を守る第一の存在であるということをはっきりと認めています。学校は、子どもと親のそうした関係を尊重しながら、ほんの少しだけ、家庭よりも広い社会を作って、子どもたちの育ちをさらに見守り導く専門家の集団だと考えます。ホンモノの社会に自立した大人として出ていけるようになるまでの橋渡しの場所が学校でもあるのです。決して、できる子、できない子を分けたり、良い子、悪い子を差別したり、保護者は、子離れできずにうるさく文句を言う人たちだ、と排除してしまう集団ではありません。
 ペーターセンは、学校を共同体にしたいと考えていました。異年齢学級であるとか、基本活動であるとか、ワールドオリエンテーションが目的ではないのです。学校が真に共同体として機能するために編み出された形が、異年齢学級と基本活動とワールドオリエンテーションなどであったわけで、決して逆ではありませんでした。子どもを中心にし、その周りに保護者、そしてその周りを学校の教職員が取り巻く共同体、それは、保護者と教職員が、今を生きる大人集団として、次世代を行き、次の社会を築いて行く子供達のために、自らが持っている力を協力して注ぎ込むための場所です。

 保護者の中には、ものづくりに優れている人、楽器を弾ける人、科学者、哲学者、野菜を作っている人、木を切っている人、羊を飼っている人、物を売っている人、色々な生業にそれぞれ携わっているはずです。また、お話の上手な人、絵が上手な人、静かに人の話を聞ける人、助けが必要な人にそっと手を差し伸べられる人、そう言う人たちもいるでしょう。そういう人たちが、みんなで集まり、新しい世代の子どもたちに、みんなでできる限りの遺産を残してあげる場所、それが、学校なのではないかと思います。そこで、一人一人の大人が提供してくれるものは、学校の教科書などに書かれているものよりも、どれだけ大きな価値のあるものかわかりません。
 親が、自分の子どもが産まれた瞬間に、優先順位を自分から子どもへと移すように、学校も、優先順位は、常に、次の世代を生きる子どもたちでなければならないはずです。自分たち自身が、自分の生を精一杯生き、限りなく、悔いなく学んでいる大人たちであれば、それができるはずなのです。そういう、真の意味での「大人」でありたいものです。
 大人たちは、まだ、人生の夏、旺盛な時代を生きている人もいれば、人生の秋、そして冬を生きている人たちもいるでしょう。でも、私たちは皆、生命のサイクルの中の一つの時期を占めており、目の前にいる子どもたちは、人生の早春期にいるのです。

 ずいぶん昔の映画になりますが、ライオンキングのアニメーションで、産まれたばかりの子ライオンを、野生のヒヒが、崖っぷちで両手を天に突き上げて高々と掲げている場面があります。私たちは、こうして、新しい世代に、自分のいた場所を譲って行くのではないでしょうか。君たちが、これからの主人公なのだよ、と。
 教師であるとか、保護者であるとかの肩書きに関わらず、私たち大人は、自分たちが精一杯に生きてきたこの世界を、次の世代のために空け、そして、自分たちの叡智の全てを、新しい世代を生きて行く子どもたちのために、譲り渡して行くのだと思います。
 学校は、それを、大人たちが一緒になってやることのできる、素晴らしい場所です。(続く)

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共に生きることを学ぶ学校」

 

 

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イエナプラン 共に生きることを学ぶ学校

フレーク・フェルトハウズ、 ヒュバート・ウィンタース 著 リヒテルズ 直子 訳

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