子どもたちへの眼差し:近い目・遠い目

母熊に谷に突き落とされる子熊

 子どもの頃、ディズニー社は、アニメーション映画のほかに自然界の動物の生態を描くキュメンタリー映画を配信していました。日本で、まだテレビ放映が始まって間もないその頃、隔週で、アニメーション映画と自然界のドキュメンタリー映画とが交互に放映されていたのを子ども心に記憶しています。私は、どちらかというと、本物の世界を描いたドキュメンタリー映画の方が好きで、アメリカのロッキー山脈だとか、ヨセミテ国立公園などのことは、この時に聞き覚えた名前だったように思います。

 このドキュメンタリーの中で、今でも忘れられない、衝撃的な映像がありました。それは、母熊が子熊を谷に向かって突き落としている光景でした。母熊は、まだ自分の後をコロコロ追って来るような子熊たちを、谷に向けて転がし落とすのです。この映像を見せながら「動物界の親は、子どもたちをこうして自立させる」という解説が入ったことまで心にはっきり刻まれています。母熊は、子熊を鼻先で谷に向けて転がしながら「自力で谷から上がってこい」というメッセージを送っているのでした。

 「自立」という言葉を聞くたびに、わたしの脳裏には、この時に見たテレビの映像がありありと蘇ってくるのです。

自立するのも、自立させるのも苦手な日本人

 でも、そんなふうに厳しく指導されることが、日本にいる間、小学校から大学に至るまで、本当になかった。挑戦させられることがないので、自分の力が本当はどの程度なのかも見えない、そんな不安な気持ちが、留学する日まで続いていた気がします。

 甘え、甘えられ、甘やかすことが好きな日本人は、自分の力で自立することも、誰かに自立させられることも、誰かが自立しようとしている時に支え励ましてやることも、あまり得意であるようには見えません。それは、わたしが訪れた開発途上国の親たちの姿に比べても、ヨーロッパの先進国の親たちの姿に比べて見てもそう見えてしまうのです。本来、人間の子どもも、動物の子どもも、自立していくために必要な潜在的な力を生まれつき持っており、大人たちはそうした力を引き出すものというのは、何か本能的なものとして、動物の親子が持っているのと同じように、どの文化の人間社会の伝統にもあった気がするのですが。もちろん、どこかのスポーツクラブのしごきや、どこかの学校の軍事訓練のような体罰のことを言っているのではありません。それぞれの子どもが、今が学びのチャンスだと言うときに、ポンと一人でやらせてみる、「君ならできるよ、やってごらん」と自信を持たせて飛ばせてみる、そう言う教え方が、段々になくなってきているような気がするのです。

寄り添う???

 そういう「甘え社会」の日本で子どもたちの「個別の発達」だとか、今、文科省が進めようとしている「個別最適化の教育」という言葉を聞くと、教員たちは、「そうか、それじゃあ、子どもたち一人ひとりに寄り添って、必要なものはなんなのか、それをどうして用意しておいてやったらいいだろう」とどんどん一人一人の子どもに大人たちが近づいて行き、手取り足取り、何もかもを大人の考えで先に先にと準備しようとしてしまいがちです。危険なものや成長の障害になるものはさっさと排除してしまい、危ないことや痛い目に遭わないようにしてやらなければ、と一年中ポカポカとした温室に置かれた純粋培養器のような状況を、作らなければと考えてしまってはいないでしょうか。ちょっと極端かもしれませんが、一人一人にあった教育と言われると、それを用意するのが教員だと思い込んでしまっているのではないでしょうか。

 一人ひとりの子どもの一挙手一投足を、目を皿のようにして観察しようとする、、、、、子どもへの眼差しがどんどん子どもに近づいてしまう。けれども、そんなことを30人も子どもがいる学級でやることなど不可能だし、仕事や家事や兄弟姉妹の世話にも手をかけなければならない親が一人でできるはずもないことなのです。それに、そういう手取り足取りは、子どもを自立させるどころか、ますます大人への依存心を膨らませ、自分一人では何もできない、また、自分一人で何かをしようという意欲さえ持たない、心は子どものままの、依存心ばかりが強く、自立心や責任感や自尊感情の低い大人を量産することにしかなりません。

 大人の方は、一人ひとりの子どもを詳しく観察し気づいたことにいちいち対応しなければならないという強迫観念に捉えられて心身ともに疲れ果てて、子どもは子どもで、自分一人で試してみることも、失敗したり回り道をしたり、誰かに助けをもとめるというチャンスも奪われ、自立どころか依存心の方が強くなり、自分の本当の力を見つけられず、自信も自己肯定感も持てなくなっていくのです。つまり、大人たちが良かれと思ってしているはずの「個別の子どもへの関心」も「個別最適化」のこころみも、大人は疲れ、子どもは息苦しいばかりという、どちらにとっても幸福感からは程遠い成果しかうめない、という結果に終わってしまっているのではないでしょうか。

 そもそも「寄り添う」という言葉が、あたかも、教師が心に刻んでおくべき重要な言葉のように、やたらあちこちから聞こえていることが、わたしには気になります。子どもは、だれか大人に「寄り添ってもらいたい」などとほんとうに思っているのでしょうか。わたし自身の経験を振り返ってみても、子どもというものは、基本的に、自分で試してみたい、自分でやってみたいと思っているものだと思います。

ホンモノに触れ、他者から学ぶ

 無論、人間の子どもたちを母熊がやるように谷に突き落とせ、などというつもりは毛頭ありません。けれども、子どもたちが、自分の力を見出せる機会、失敗して立ち上がる機会、自分が最もよく学べる方法を見出せる機会を用意することは大切です。大人の役割は、子どもたちには、自分の判断で自由に動いていると思わせながら、子どもの様子を気づかれないように観察し、今この子に必要なものはなんだろう、とそれとなく興味を持ちそうなところに用意しておく、そして、子どもたちに悟られないように、こうすれば子どもが新しい発見をするかもしれない、こうすれば別のやり方で何かを学べるかもしれない、こうすれば好奇心に掻き立てられ探究心でいっぱいになるだろう、、、そういうものを、こっそり環境の中の仕組みとして作っておく、それが教員の仕事です。

 そういう環境づくりの一つが異年齢の子どもたちによるファミリーグループであり、教師、保護者、地域の人々が協働している姿そのものとしての学校共同体なのです。

遠くから眺め見守る目

 そういう場で、教員たちが持つべきなのは、「遠くから眺める目」です。とりわけ、グループ全体の中で、あるいは、学校に来ている様々な子どもや大人たちの間で、自分の意思で動いている時の子どもたちが、一人で学んでいる姿、子ども同士で助け合ったり学び会ったりしている姿、です。

 どの子がリーダーシップを発揮しているだろう、どの子が全体の雰囲気を良くしようとしているだろう、どの子が本当に深く考えているだろう、どのことどの子はいつも一緒にいるだろう、どの子はいつも孤立しているだろう、それはなぜ? そういう姿が見えることで、グループ全体の中での子どもたちの様子を見極められるのは、教員が、一人一人の子どもに近づき寄り添おうとしているときではなく、一歩引き下がり、遠くから静かに眺めているときです。
 そして、子どもたちは、こうして、グループリーダーが、自分たちを静かに見守ってくれていることを知っています。グループリーダーが、一人で誰か一人の子どもに近づいているときに、自分の姿がグループリーダーの視野に入っていないことも知っています。

 良く、学校の先生は、子どもたちに課題を出したり、グループ活動をやらせているときに、教室の中をぐるぐる動き回り、子どもたちの頭上からやっていることを覗き込んだり、グループで話し合いをしているところに入り込んで、話の内容に耳を傾けたりしますが、それはやらないほうがいい。

 「任せられる」「信じられている」という感覚がなければ、子どもたちの責任意識や自立心は育たないし、本当に助け合ったり協働することで問題を解決しなければならないという切迫感を持つこともないからです。

 もちろん、いつもそうでなければならないというわけではなく、子どもたちが求めてきた時、子どもたちが、教員の関心を求めているときには、近くに寄ってしっかり認めることも大事だと思います。でも、油絵を描く人が筆を休めて、一度キャンバスから退き距離を置いて描いた絵を眺めるように、遠くに引いて全体を見ることで見えてくるものはとても多いはずです。

 私も、日本という国、そこで育ってきた自分の姿を見出すために、日本から遠く遠く離れていきました。そして、見えてきたものはとても多かったとおもっています。

 今、日本全国のどこで、どんな人が、どんなふうにイエナプランを学ぼうとしていて、誰がどんなふうに一緒に活動しているか、などが、遠くにいると、多分日本の中にいるよりもずっと良くわかる気がします。頭の中に、日本地図を描いて、そこでいろんな人たちが動いています。遠くから眺めることのメリットは、こんなところにもあるのです。(続く)

イエナプラン 共に生きることを学ぶ学校
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フレーク・フェルトハウズ、 ヒュバート・ウィンタース 著 リヒテルズ 直子 訳

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