第12話 イエナプラン、原体験を掴む<後半>(リレーエッセイ)

りょうた君との「特別」な時間

 ある日の個別の時間。彼は、いつものように間違いのカードをわざと取り(つまり、私は遊ばれている)、ビー玉で少しだけ遊びながら10までの数を数えさせられ、5秒でお絵描きを終えた。(またか…)ため息がこぼれた。が、これで終わっていては、ただただお互いに不幸なだけである。だから、彼は目の前の新米教師(というより、お兄さん?)がこの時間を扱いかねていることを察してか、興味のないお絵描きをさっさと済ませると、必ずこう言うのだった。
「さんぽ!」
それを受けて、私は「しょうがないねえ…」と言いつつ、内心(ああ、助かった。散歩ならいい。運動にもなるし、こんな時間より余程実りがある)などと思いつつ、毎回決まって外に出るのだ。そして、この日もいつものように、彼は散歩をオーダーした。
「じゃあ、行こうか。散歩」
そう言って教室のベランダから出発して、平屋の校舎の周りをぐるっと歩いていく私たち。こうして先ほどまでの何の生気も生まれない個別の課題から解放された2人は、少しずつ元気を取り戻しつつ、ちょうど半周、校舎の裏側までやってきた。すると、突然りょうた君が何かを叫んだ。
「うぉん!」
驚いて彼を見やる私。
「なんだって?」
と問う私に、彼は再び
「ワン!!」
と言った。唐突な展開に若干面食らいつつも、よく耳を澄ませてみると、裏門の向こうに見える家から、微かに犬の泣き声がする。
「ああ、犬がいるねえ。りょうた君、犬が好きなの?」
「ウン!」
大きくうなずく彼。
「へえ、それは知らなかった。ちょっと近くに行ってみようか。見えるかなあ」
そう言って、私たちは真っ黒で重厚な鉄の裏門に触れるところまでやってきた。
「ああ、たぶん……あの家からかな? うーん、見えないねえ。残念だね」
すると、彼は「ワン! ワン!」
と、さらに大きな声を出した。どうやら何かを訴えているらしい。でも、彼はそれを自分の言葉で正確に表現することができない。そこで、私は彼が言いたいことを推測し、いつものように尋ねてみた。
「ひょっとして、犬が見たいの?」
「ウン!」
当たった。やっぱり。
(いや、でも、犬の家は校門の外ですよ、りょうた君……)
私は瞬間的にそう思ったものの、同時に、こんな気持ちも湧いてきてしまったのだ。
(この時を逃してはいけない気がする…)
次の瞬間、私は決めていた。そして、私は彼と一緒に裏門を出たのだった。
(あとで、ちゃんと報告しよう。先生たち、みんな分かってくれるはず。それに犬の家はすぐそこだしな)
と、自分の中に浮かんでくるあれこれの配慮すべき事項を整理し、
(よし、やっぱり、これでいい)
と自分を説得することができた時には、私たちは既に犬を見つけていた。
「ワンッ!!」
さらに大きく吠えるりょうた君。
「犬、いたね。よかったねえ!」
彼の興奮が伝わり、私まで嬉しくなっていた。しかし、さすがにここまでが限界。
「よし、帰ろうか」
とついさっきの興奮を収め、彼の手を取りながら言った。すると、
(ぐぃ~~!)
「イテテテッ!」
りょうた君が、私の手を思いっきり握って引っ張った。
「なに、なに!?」
すかさず言うも、彼は文章を喋らない。だから、私はまたいつものように察してみたのだが……これはさらに困ったことになった。どうやら、彼は犬を触りたいようなのだ。
「ひょっとして、犬、触りたいの?」
「ウン!!」
(おいおい、さすがに、それは)
そう思いつつ、途端に頭の中であらゆる懸念と内なる声が交錯した。
(どうしてそれができないのか。だって、そこに犬はいるのだ。もちろん、飼い主に許可を得なければいけない。でも、そもそも飼い主は在宅中なのか。いたとしても、許可してくれるのか。いや、そんなの確かめてみないとわからない。いなければそれまでだし、同じく断られればそれまで。別に私は犯罪をおかす訳でもなく、ただ今まさに起こっているこの子の欲求に、できる限り寄り添ってみようというだけのことだ。でも、待て待て。今は学校の授業の時間で……ん? どうして学校だといけなんだ…)

少しの葛藤の後、私は呼び鈴を鳴らした。
—— ピンポーーン ——
ガチャ
「あっ」
飼い主の女性が出てきた。私は慌てて事情を伝える。
「すみません。私はそこの養護学校のものなんですが、この子がどうしても犬が見たいというので、腕を引っ張られてしまって……突然で申し訳ないのですが」
そう言うと、その女性は
「ああ、そんなの、いいですよ」
と答えた。
「えっ、いいんですか」
と私が言うより早く、りょうた君は飛び跳ねていた。
「ありがとうございます! でも、この子、触りたいみたいで…」
「ああ、いいですよ」
返事を聞き、さらに飛び跳ねるりょうた君。しかし、彼はすぐにこう言って私にしがみついてきた。
「こわい~」
「ああ、犬は触りたくても、怖いのね!」
飼い主の女性と私は、一緒に笑った。それでも、私にしがみつきながら、かろうじて犬に触れることができた彼は、またもわかりやすく両手を万歳の形に挙げて、ピョンピョンと飛び跳ね、喜びを表現するのだった。
「さあ、あまり長居をしては申し訳ないし、もう帰ろうか」
特段急ぐ訳ではなかったが、そもそもかなり「普通」でないことをしてしまっている自覚があった私は、彼にこう持ちかけた。が、次の瞬間、2度目の
(ぐぃ~~!)
(イテテテッ!)
腕を思いっきり引っ張られた。(今度は一体、何?)そう思ってまた彼の様子から察するに、どうもこう言いたいのではないか、ということを、私の思い込みかもしれないが読み取ってしまった。
「ひょっとして、散歩したいの…?」
「ウンッ!!!」
(それは、確かにしたいよね。俺も面白そうだと思うけど、さすがにそれは…)
と思いつつ飼い主の女性の方を見やると、
「ああ、いいですよ」
とこともなげに仰った。
「えっ、ホントですか!?」
こうして、私たち2人と1匹は、思いがけぬ巡り合わせから一緒に散歩をしたのだ。これは私にとって、生涯忘れることのできない特別な散歩になった。

イエナプランへのこだわり、その出発点

 さて、この話はまだ終わらない。翌日、いつものように個別の時間がやってきた。あのドラマティックな散歩の時間とは打って変わって、またいつも通りに、ただ実りのない退屈な時間で終わるはずだった。りょうた君は、いつものように間違いの絵カードをわざと選び、いつものようにアクリルパイプにおざなりにビー玉を落とした。ため息。
(昨日の、あの生き生きとした表情はどこへ行ったのだ)
そう思いながら、私はまたいつものお絵描き用の白紙を彼に差し出した。
「はい、自由に描いていいよ」
そう半ば諦めの気持ちを隠せぬままに言うと、奇妙なことが起こった。
—— グリグリグリグリーーッ! ——
彼が突然に、ものすごい勢いで何かを描き殴り始めたのだ。彼は器用じゃない。だから、見た目には書き殴っているように見えるのだが、そうではなく、内側から湧き起こるものに突き動かされるように、ハッキリと、何かを描こうとしているのだ。その時、私はそれが何なのか、すぐにピンときた。
「これ、ひょっとして、昨日の犬?」
「ウンッ!!! ワン! ワンッ!」
(あああ…!)
私は目の前で起こったこの奇跡に、加えるべき言葉を失った。
(そうか。そうなんだ……)
イエナプラン。この言葉にこだわる理由の一つ。出発点は間違いなく、ここにある。

 その翌年、私は公立小学校の学級担任になった。日本で最も一般的な小学校の教室から、本当の意味でインクルーシブな社会を作りたかったからだ。イエナプランに出会ったのも、その最初の年の夏休みだった。以来、私は自分の未熟な子ども観・学校観・教育観を問い直し続け、その過程で度重なる失敗と多くの犠牲を生んできた。従来の授業とは異なるスタイルの実践を重ねた末、生涯勤め上げると思っていた公立小学校教諭を退職。地元に小さなオルタナティブスクールを立ち上げるも、理想と現実のギャップに押しつぶされて砕けた。その後、認定NPO法人の学校に拾ってもらった。自分の学ぶべきことが一層クリアになり、オランダで3ヶ月間イエナプランを学んだ。帰国後、公立小学校で再び学級担任に戻った。2019年4月からは新しい私立小学校の立ち上げに加わり3年間、そして、今年度からは再び公立小学校へ…。

 この記事でその全てに触れることはできないが、この波乱に満ちた十数年の日々から、私は多くのことを学んだ。それは教員としての学びを超えた、人間としての学びだった。そして、「人間の学校」を求めてやってきた現在地は、この出発点となったエピソードとつながっている。私がイエナプランにこだわるのは、ペーターセンやオランダの教育者たちが育んできたこのコンセプトが、私にこの原体験を掴んで離さないままにしておくことを諦めずに済ませてくれるからだ。

 こういう忘れられないエピソードは、教育者であれば一つや二つ、必ずと言っていいくらいにあるだろう。これを読んでいるあなたはどうだろう。自身の原体験を、今も掴んだままでいるだろうか? もしそうではなく、もう一度掴み直したいと願うなら、私はイエナプランを学ぶことをおすすめする。イエナプランは私たちの心の真ん中で生きている。(濵 大輔)

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